けんこうだいいち

じぶんをつなぎとめる、ひびのきろく

2021

 

 

怒涛の勢いで過ごした年末年始、最後の数日間は正直疲れて生きた心地がしなかった。

数日、大して好きでもない音楽を聴き、大して好んでもない服を着て、別に行きたくもない場所に行った。一人になって、数日ぶりに自分の好きな曲を聴き、着たい服を着て、とても心が安心した。たったこれだけのことで、こんなに心が休まるのか、と純粋に驚いた。

自分が聴きたい音楽や、着たい服を着るのに言い訳をしなければいけない、それが「人間関係」なのであれば、なんと窮屈なものなのだと思った。その窮屈さを愛せ、それこそが他人と過ごすための礼儀だ、人生だ、というのならば、きっと私には何一つとして向いていることは無いのではないかと、感じる。自分が好きなものに対して言い訳をしたくない。ある程度のTPOは弁えるとして、自信を持って「この音楽が好きだ」とか「この服が好きだ」と、言いたい。

 

年始休暇の最後の数日、一人きりで三社参りに行ってきた。生活圏の神社、生まれ育った地域の神社、好んでよく通っていた神社。私は今年厄年なので、揃いも揃っておみくじには「静かに粛々と」みたいなことが書かれていた。待人も来ないらしい。

参拝をしていて思い出したのだけど、数年前の同日、私はこの神社で「今年こそは殺してください」と、涙ながらに両手を合わせて願っていた。なんだかんだ生きている。さすがの神様もそんな願い叶えてくれない。

 

去年、そして今年のたった数日ですら、色んな事が起きた。思考の整理が追い付かなくて混乱している。

何にもならないことをただ繰り返して人生を過ごしている。他人を傷つけ、己もぞんざいに扱い、結局行きつく先は完全な個だった。自分と全く同じなんて、自分以外に存在しないと再確認した。

この人と無理なら、もう他の誰と居ても無理だろう、と、思っていた人ですら別れてしまった。もう私の人生で結婚をすることなんて、ないのだろう。

それならいっそ、自分の好きなものを捻じ曲げて無理をしてまで誰かと過ごそうとするのは、やめよう。私は自分を育ててくれた音楽や、元気になれる服、食事、それがあるから生きていられる。それで自分の人生満たされていた、と、思えるのであれば、もうそれでいい。「私の大切を守れるのは私だけ」だから、きちんと大切に愛してゆく。一番大切にしなければいけない人との関係すら守れなかったクズな私だから、この際もう、物でいい、最後に残った物くらい、私の大切はきちんと自分で守る。

色々なことが重なり、人にドン詰めされた。普通に体調を崩した。そういえば、昔学校への拒絶反応出て、登校後毎日高熱が出てたの思い出した。
自分はなんてひどいことをしたのだろう、これじゃあ、普通に体調崩すよな、ごめんね。やっと気付けた。

 

そんなこんなで、自分が人にしたことが見事に返ってきて、悩んで体調を崩し、やっと全てを許せるような優しい気持になった。焦燥感はすごいけど、これもそのうち落ち着いてくるんだろう。

今日は身の回りの人たちに優しく接することが出来た。こういう毎日を繰り返して、自分に関わる人たちが少しでもいい気分になってくれたらいい。嬉しい顔をしてくれたらいい。自分を大切にして、人に優しくできればきっと心地が良い。やっとここまで来れた、そういう人生を、ただ粛々と、時間の流れるままに過ごしていこう。

 

きっと、未来の私は、「なんであの時もっとアクションを起こさなかったんだろう」と、今日の日の私を責めるのでしょう。それでも、今日の私がもう納得しているから、未来の私、いつかこの手記を見返した時、どうぞ後悔してください。

心穏やかに、焦らず、自分のすべきことを淡々とこなしてゆく。自分が愛すものを丁寧に愛し、満たされた気持ちで周囲の人たちに接する。そういう年にしていく。

 

新年の挨拶をした時、年末年始の休暇の間に、ちょっとした事で職場の人の記憶の中に登場できた話を聞いた。嬉しかった。直接面と向かって話さなくても、私の事を思い出してくれる人がいること、それはとても有難く、幸せなことなんだと思った。

 

さて、心穏やかに、もう一度「けんこう」で「だいじょうぶ」になろう。

 

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数年ぶりに、日記じゃない手帳を買った。一週間のtodoを管理するための物。予定を埋めて楽しむための物ではないけど、何度だって手に取りたい物を一緒に詰め込んで、頓服にする。

 

しばらくポストを見れずに過ごしていたけど、毎日の新聞で、案の定ポストがパンクしていた。相変わらず数日に一回だけ掃除をしている。