けんこうだいいち

じぶんをつなぎとめる、ひびのきろく

210122

 

 

賢い言葉を使っている様で、全然違う。ばかだなあ、と思う。

ちょっとした言葉選びや、いかに「正しい言葉を正しく使えるか」みたいなものに、人の知性というものは見える。「為せば成る、為さねば成らぬ何事も」という、よく使われる言葉、実はこれには続きがある。その続きを知らない、そして正しく使えない人は、そもそもこの言葉使わない方がいいんじゃない?とすら思う。でも、正直他人事だし、別にいいんだけど。後輩は結構抜けているが、それがいい。

年が明けてまだざっと三週間しか過ぎていないのに、なんだか今年は慌ただしく人に会っている。昔から面倒を見て見られての関係だった後輩に、よく連絡を貰うようになって、定期的にその辺で長話をきめ込んでいる。

一人暮らしをするために、資格を取って転職しようとしている。

 

後輩が取ろうとしている資格、私は既に持っていて、合格率は全体に対して大体30%くらい。取ったのは勉強盛り真っ只中の、学生時代。社会人と一緒に商業学校?の校舎で一緒に受けた。

被服の学校だから専門科目外だったけど、一番の得意科目で、成績が良かったから受験した。学生時代の一番脳がキレてる時でも結構苦労して取ったから、正直完全に初心者の後輩がネットに書いてる合格目安の時間勉強して、一発で受かるなんて思えなかった。

それでも「出来るとこまでやってみます」という後輩は、なんかとても立派に見えた。学ぶことの大切さを感じた。

友達が「今日も生きててえらい!」て褒めてくれるんよな、って言うと、別れ際に「生きててえらいですよ~!」なんて言うもんだから、盛大に笑ってしまった。お陰さんだよ。

 

そんなこんなで、私はその資格、既に持ってるので、もう一つ上の級を勉強してみようかな、なんて考えて本屋さんでテキストを読んだりしている。ここ数年の合格率は20%弱って所だけど、社会的に重宝される資格ではあるから、長いスパンで勉強してみようかな、とまだまだ色々調べている。

どこの会社でも通用するものを身に付けることが、社会人として強くなることだもんな。独立開業する訳でもないし、なによりこれを学ぶと先輩と仕事する上でもメリットしかない。年を重ねても、どこの会社に行っても役に立つのが資格。社内に有資格者がいるから、話聞いてみよう。とても環境に恵まれている。

 

 

県外の母親から、突然「今日あったとても嬉しかったこと」みたいなものが送られてきた。あんまりにも嬉しくて、記念撮影までしていた。

純粋に、母親に嬉しいことが起きるのは、こっちも嬉しい。母親が人に大切にされていたり、誰かに認めてもらっていることは嬉しい。巡り巡っていい環境にたどり着いたんだな、と思うと、聞いただけの自分が温かい気持ちになる。

随分前から母が地元に戻るために頑張るって言っていた。けど、旅行も外出も難しい世間の情勢で、引っ越しも、勿論そこそこ厳しい。田舎だから、特に。早く帰ってこないかな、って思っていたけど、あっちはあっちで母も素敵な人間の繋がりを得ているようで、安心した。こっちに戻ってくるまでに、一つでも多く、そういうことが起こるといいね。

 

去年の秋くらいから疎遠だった姉に、ちょっとしたキッカケで連絡をした。翌朝返事が返ってきた。スタンプひとつでも、それが、涙が出るくらい嬉しかった。姉はよくわからない、というか、悲しくなるのが嫌であんまり関わってなかったけど、やっぱり私は姉が好きだ。お土産も差し入れも、めげずにやってずっと無視されてたけど、報われた気がした。

友達も連絡したらすぐ返してくれる。いい加減食事いこうな。人の金で食う焼肉はうまいから好きなだけ食えって前から言うけど、言いっぱなしはダメやぞ。

 

 

今年厄年だけど、なんだかんだ普通に過ごしている。普通に周りが優しくしてくれて、嬉しいことがあって、全然当たり前に恵まれていると感じる。厄年って言うのなら、こういう流れの中で自分の厄を落とし切って、心身健やかにいたい。多分体調面でなんか来るんだろうな。事故しないようにしよう。今の車、去年の正月に買ったけど、全然当てたりしてないから油断しないように。

 

厄年は、満年齢じゃなくて数え年っていうのが、「陰陽道由来」って感じで歴史を感じる。あんまり良いもんじゃないのはわかるけど、折角?自分が今そこにいるのなら、そういうのごと吸収して賢くなりましょう。

 

夏の夕焼けと冬の朝日が好きだ。1月は通勤の時間が少し暗くて、いい具合に通勤しながら朝日が拝める。美しくて心が洗われる。冬が終われば、空の薄い水色と朝日の薄い橙が混じった空が見れなくなるんだよな。寒いのを我慢してまで見たい景色。きっと登山してる人ってこんな気持ちで山に登ってるんだろうなと思った。

 

仕事めちゃくちゃ頑張ったら超褒められた。来週も頑張ろう。

 

読みたかった本を読んでいたら、文章を読んでる途中から助走をつけるみたいに体の中にグワッと押し寄せるものがあり、読み終えた時には全身痺れた一文があった。そうだ、どこで戦うべきかを間違えてはいけない。私は私のためにやるべきことがある。それを忘れてはだめだ。

 

 

 

 

210108

 

 

夜寝る前と、朝起きて、すこし不安になる。なんとなく、夜の不安な気持ちが大きくなって、SNSの通知を、ごく一部の人以外全部オフにする。アプリの右側に、広告であろう通知のバッジがポンポンと増える。夜寝る前に落ち着いて開封する。そして布団に潜る。けど、友人が「今日も生きてたから偉い」と言ってくれるので、今日の私は「偉い人間」としてここにいる。それだけでいい。

私はショートスリーパーなのだけど、今週はきちんと寝れていて目覚ましで起きることも増えた。いつも目覚ましより一時間くらい先に起きていたから、これはすごいことだと思う。

 

日々の焦燥感が少しずつ落ち着いてきている。

去年、と言いつつも、つい数日前は、「朝起きて好きな音楽を聴く」ということが当たり前だったけど、なんだか心が落ち着いてからは、それすら幸せなのだと自分に言い聞かせることが出来ている。

怒るのもしんどいので、会社でも周りにめちゃくちゃ優しく、穏やかに過ごせている。普通に皆今までも優しかったけど、自分が優しい気持でいるだけで、今まで以上に周りも優しい気がしてきて、逆に申し訳なさすら感じてくる。

今まで「この人とは絶対に分かり合えないから、もうこの先可能な限り関わりたくない」と思っていた人にすら、世間話をして労いの言葉をかけれるようになった。自分でもびっくりしたけど、これは成長なのだと思うと、なんだか自分自身を褒めてあげたい気持ちになった。

 

 

私の元々の上司だった人は、役員からパワハラまがいの扱いをされ、数か月前から突然休職している。私もパワハラの火の粉をかぶっていて、一時期は会社に行くのに体調が悪くなっていた。

上司が休職して、上司と同い年の管理者が上司代理となり、私の上司になった。

その上司代理が、とても人間のできた、人情のあるおっちゃんで、その人と関わっているととても学ぶことが多い。張り詰めた厳しさみたいなもんじゃなく、もっと優しくて暖かい、自分以外の人を受入れ、許す強さや、家族みたいな人間付き合い。

私が酷い言われようをされて気に掛けてくれたのも、心配してくれたのも、対策を打ってくれたのも、とても嬉しかったし、今でも時間を見つけて世間話をしては、「同い年の娘と話しているみたいだ」と笑って相槌を打ってくれる。

娘さんは関東にいるらしく、「いつか彼氏でも連れて挨拶に帰ってくるんやろうなあ」なんて上司が言うから、こっちが感極まって泣きそうになった。

自分が本当に駄目な時に救ってくれた人、ある種の恩人、というのには、出来る限り全力で心尽くしをしたいものだ。本当に駄目な時にこそ、ちゃんと守ってくれるという安心感があるからこそ、仕えることも出来るし、頑張れるのだと実感する。

 

正月前までは、その上司に愚痴を言っては宥めて貰っていたけど、この一週間は上司に教えてもらった労いの心とか、相手を思いやる、自己中心的に話をぶつけない、みたいなことを考えながら話している。本当の父親も、こんな存在なんだろうか、なんて考えている。

上司が「この一週間は、長かったやろ」と声を掛けてくれた。私は本心で「人と関わって、話していると気持ちが落ち着くので、あっという間でした。むしろ連休が長くなりそうでどうしようって感じです」と言った。今の自分は、人と関わることが、自分を成長させる訓練みたいなものだから。会社に行くことは心地が良い。周りの優しい人たちに感謝をしよう。

 

 

相変わらず、折角買った手帳には日々のやることがパラパラ書かれているだけの状態だけど、これは超高級なメモだから、と思うと、それはそれで気楽でいいなと思える。

 

なんだか、ここまで来るのにとても長い時間を要したなと思う。けど、自分の中で「納得すること、諦めること、手放すこと、護ること」をするだけで、いくらか生きやすい世界になるんだなと感じた。

去年の誕生日から髪を切っていない。髪質がいいのと、テキトーながらもケアをしているので、半年以上切らなくても伸びるだけでみっともない感じにならないのが、自分の髪の最高な所だと思っている。

けど、今春からは、私は新しい事業の新しい会社に、出向する予定だ。さすがに、いくら髪が綺麗でも、長すぎは気味が悪いから、気分転換に、…そうだな、3月までには切ろう。

 

春からは、春からも?出来ることを着々と、確実にやっていって、心地よく生きたい。

あと、事業を起こした先輩の努力と賢さから沢山学んで、人として社会人として強く生きていけるようになりたい。なんとか、新年仕事始め一週目が終わった。よく生きた自分。

 

 

2021

 

 

怒涛の勢いで過ごした年末年始、最後の数日間は正直疲れて生きた心地がしなかった。

数日、大して好きでもない音楽を聴き、大して好んでもない服を着て、別に行きたくもない場所に行った。一人になって、数日ぶりに自分の好きな曲を聴き、着たい服を着て、とても心が安心した。たったこれだけのことで、こんなに心が休まるのか、と純粋に驚いた。

自分が聴きたい音楽や、着たい服を着るのに言い訳をしなければいけない、それが「人間関係」なのであれば、なんと窮屈なものなのだと思った。その窮屈さを愛せ、それこそが他人と過ごすための礼儀だ、人生だ、というのならば、きっと私には何一つとして向いていることは無いのではないかと、感じる。自分が好きなものに対して言い訳をしたくない。ある程度のTPOは弁えるとして、自信を持って「この音楽が好きだ」とか「この服が好きだ」と、言いたい。

 

年始休暇の最後の数日、一人きりで三社参りに行ってきた。生活圏の神社、生まれ育った地域の神社、好んでよく通っていた神社。私は今年厄年なので、揃いも揃っておみくじには「静かに粛々と」みたいなことが書かれていた。待人も来ないらしい。

参拝をしていて思い出したのだけど、数年前の同日、私はこの神社で「今年こそは殺してください」と、涙ながらに両手を合わせて願っていた。なんだかんだ生きている。さすがの神様もそんな願い叶えてくれない。

 

去年、そして今年のたった数日ですら、色んな事が起きた。思考の整理が追い付かなくて混乱している。

何にもならないことをただ繰り返して人生を過ごしている。他人を傷つけ、己もぞんざいに扱い、結局行きつく先は完全な個だった。自分と全く同じなんて、自分以外に存在しないと再確認した。

この人と無理なら、もう他の誰と居ても無理だろう、と、思っていた人ですら別れてしまった。もう私の人生で結婚をすることなんて、ないのだろう。

それならいっそ、自分の好きなものを捻じ曲げて無理をしてまで誰かと過ごそうとするのは、やめよう。私は自分を育ててくれた音楽や、元気になれる服、食事、それがあるから生きていられる。それで自分の人生満たされていた、と、思えるのであれば、もうそれでいい。「私の大切を守れるのは私だけ」だから、きちんと大切に愛してゆく。一番大切にしなければいけない人との関係すら守れなかったクズな私だから、この際もう、物でいい、最後に残った物くらい、私の大切はきちんと自分で守る。

色々なことが重なり、人にドン詰めされた。普通に体調を崩した。そういえば、昔学校への拒絶反応出て、登校後毎日高熱が出てたの思い出した。
自分はなんてひどいことをしたのだろう、これじゃあ、普通に体調崩すよな、ごめんね。やっと気付けた。

 

そんなこんなで、自分が人にしたことが見事に返ってきて、悩んで体調を崩し、やっと全てを許せるような優しい気持になった。焦燥感はすごいけど、これもそのうち落ち着いてくるんだろう。

今日は身の回りの人たちに優しく接することが出来た。こういう毎日を繰り返して、自分に関わる人たちが少しでもいい気分になってくれたらいい。嬉しい顔をしてくれたらいい。自分を大切にして、人に優しくできればきっと心地が良い。やっとここまで来れた、そういう人生を、ただ粛々と、時間の流れるままに過ごしていこう。

 

きっと、未来の私は、「なんであの時もっとアクションを起こさなかったんだろう」と、今日の日の私を責めるのでしょう。それでも、今日の私がもう納得しているから、未来の私、いつかこの手記を見返した時、どうぞ後悔してください。

心穏やかに、焦らず、自分のすべきことを淡々とこなしてゆく。自分が愛すものを丁寧に愛し、満たされた気持ちで周囲の人たちに接する。そういう年にしていく。

 

新年の挨拶をした時、年末年始の休暇の間に、ちょっとした事で職場の人の記憶の中に登場できた話を聞いた。嬉しかった。直接面と向かって話さなくても、私の事を思い出してくれる人がいること、それはとても有難く、幸せなことなんだと思った。

 

さて、心穏やかに、もう一度「けんこう」で「だいじょうぶ」になろう。

 

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数年ぶりに、日記じゃない手帳を買った。一週間のtodoを管理するための物。予定を埋めて楽しむための物ではないけど、何度だって手に取りたい物を一緒に詰め込んで、頓服にする。

 

しばらくポストを見れずに過ごしていたけど、毎日の新聞で、案の定ポストがパンクしていた。相変わらず数日に一回だけ掃除をしている。